七條紙商事株式会社

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― 先代が紡ぐ ―私の履歴書

先代(三代目)社長の七條達一が書き記した、弊社の歴史物語の一部をご紹介いたします。

七星担当の佐久間さんに毎月原稿を頼まれて、なかなか毎月書くのも骨の折れる事です。
 今日も日経新聞連載の、私の履歴書を読んでいるうちに、ふと、私自身の履歴書を書いてみようかと思いつき、七星に書いてみる事にしました。
 日経の私の履歴書は、日経新聞の練達の記者が履歴を語るご本人の言葉を立派な文章に直して記載しますから、文章も構文も立派なものが出来ていますが、私のは文字通り「私の履歴書」で、文章も余りうまくありませんが、思ったままを書いて見ようと思いますのでお許しください。
 私は大正七年六月三日、父「正一」と母「光子」との間の長男として、東京市日本橋区米沢町米沢町(よねざわちょう)起立:1698年(元禄11年)、廃止:1971年(昭和46年)年3月31日。町名は「米蔵の跡地」の意。三丁目四番地(現在の中央区東日本橋二丁目二十番地)で呱呱の声を上げました。
 但し、当時の七條洋紙店は、現在の南向きではなく、堀津さん(お茶屋さん)や久東さんの辺りが玄関で北向きの木造二階建の社屋でした。
 此の通りは、江戸時代から続いた賑やかな通りで、通りを隔てた前の店は、江戸時代から続いた「村田きせる店」でした。角には立花屋菓子店(現在は東京レベル印刷)。又、村田さんの隣りは梅園しるこや、銭湯の清水湯などが並び、先の方にも両側にたくさん小売店が並んで居りました。
 現在の本社の前の通りは無く、堀割が隅田川から真直ぐ入っており、千代田小学校1877年(明治10年)創立、1945年(昭和20年)廃校。現、中央区立日本橋中学校。(現在の区立四中)には橋を渡って登校したものです。この堀が薬研堀隅田川より東日本橋二丁目10番地の中央区立日本橋中学校内を南西に直進し、9番地で北西に折れ、一丁目に至った。堀底の形状がV字型であり、薬研の窪みに似ていることに由来する。1903年(明治36年)薬研堀が完全に埋め立てられる。につながって居りました。
 現在は出産の時は病院へ入院して出産しますが、当時は皆自分の家で、産婆さんに来てもらって出産しますから私は文字通り出生地と本籍地が同じです。当時は第一次大戦の時代で好景気に沸いた時代でした。
 手許の資料を見ると、前年の父母の結婚式の費用に二千七百六十二円支出して居り、又、私の出産の際に私の為に千円の預金をした記録が残って居ります。現在の物価と比較してどの位になるか判りませんが相当の金額である事は間違いありません。
 祖父は、明治二十五年にそれまでの家業である染料問屋をやめて紙屋を始めました。十月に開業したという記録がありますが何日であったかは判りません。
 七條家は、代々阿波(徳島県)小松島市徳島県のおよそ東部中央、紀伊水道沿岸に位置する市である。市の中心地は徳島小松島港付近であり、四国地方の東側の玄関口として江戸時代は藍や生活必需品の運搬拠点。に本店を置き、江戸と館山千葉県の南部に位置する市。(千葉県)に支店173醤油酢醸造家 七條彦四郎を待つ藍(染料)の豪商でした。藍は阿波の特産品で藩の大きな財政収入になって居り、販売管理は厳格に出来ていました。
 今でいうカルテルであって、日本中の販売地域が定まって居り他所の地域に売る事は出来ません。七條家(苗字帯刀を許されて居た)のテリトリーは、武蔵(江戸)、相模、安房、上総、下総でしたから、現在の東京、神奈川、埼玉、千葉の各県であり、業界の大手であった事は間違いありません。
 江戸の店は、鉄砲州(中央区)当りにあったようですが、その場所は現在はっきりしません。館山の店には、いろは四十八蔵あったといわれ、染料ばかりではなく醤油などもあつかったようです。その場所は、本社の佐久間栄次君が一度古老をたづねて確認して居り、僅かに当時の堀の跡があるやに聞いて居ります。
 手許の過去帳によると、元禄十四年に初代重兵衛が八十二才で亡くなって居ますので、その時から数えれば三百年近い伝統があります。

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(私の履歴書というより、我が家の履歴書を少し書いて見たいと思います)

藍は、阿波(徳島県)の特産であり、蜂須賀藩阿波と淡路両国を領した大藩で、吉野川流域に産する阿波藍は全国に市場をもち、元禄期以降は江戸にも及ぶ規模で藩最大の特産品となる。は、藍の販売を免許制にして販売統制をして居りましたから、藩の財政に大きく寄与して居りました。
 前にも述べました通り厳格な販売地域カルテルを結んで居り、我が家も関東地域以外には売る事は出来ません。お陰で、代々裕福に暮らし地方の豪商だったようです。
 処が、明治になって外国から色々染料が入る様になり、又、藍も印度から安いものが入って来るようになりました。長い間、藩のカルテルを頼みに安穏としていた地方産業は大打撃を蒙りました。この時代の経営者の対応の良否が経営に決定的な打撃を与えました。
 今日でも、染料の大手の「森六」「西野」「三木」各社は、何れも徳島の出身で業界の重鎮として活躍して居りますが、残念乍ら染料業界に七條の名はありません。
 明治時代の各社の当主の経営感覚の優劣がその結果を明らかにしたわけです。手許の系図を見ると、初代、二代は重兵衛といい、三代、四代は六右衛門と称したようです。尤もこの系図は文久年代にまとめたもので、その後の経過が詳らかでありませんが、七代目七條彦四郎は七條家に養子に入り、妻との間に男子がなく娘四人を産みました。
 長女に浜二を養子に迎え、二女、三女は夫々天羽・後藤田家に嫁して、四女に佐市郎を仙石家から養子に迎えました。明治の前半で大きな経済変動を迎え、その対応が難しい時でしたが、養子浜二は俳人、茶人で商売にあまり向かずのんびりして居た様です。
 四女の養子佐市郎は、働き者で兄と一緒にしていたら共倒れになると思い、明治二十五年周囲の反対を押して、全財産を処分し、兄と別れて親子五人で上京したわけです。いくら七條家が業績が悪くなったとはいえ、まだ立派に商売をしていた時に、養子が財産を処分して上京したのですから周囲の親類知人から随分非難されました。
 佐市郎(祖父)は、幸に東京の支店に度々来て居りましたので、或る程度の地理も知っていました。
 明治二十五年の春に上京し、最初は本所に仮り住居をしましたが、その年の十月には何の経験もない紙屋を現在地で開業しました。
 当初から洋紙、和紙を扱わず板紙を主に扱いました。板紙は荷車に積んでも重く金額は張りませんので嫌がれます。祖父は、はやりすたりの無い、人が嫌がる事をする事が成功する秘訣と考え板紙に着目したわけです。
 手許の資料によると、明治二十六年度((第一期)の損金が四六二円。翌二十七年度は一一二円の赤字に了り、第三期は三六円の黒字でしたが、第四期(明治二十九年度)は、又三一〇円の赤字になって居ります。その翌年からはずっと黒字になって居りますが、初期の頃の祖父の苦労が思いやられます。
 紙の業界は、全く経験なく親類には見放され、子供三人を抱えてさぞ大変だった事と思います。従って、私は七條佐市郎を初代と考え、私自身父正一を経て三代目と考えて居ります。
 七條浜二には又、男子が無く娘四人が出来ました。三人は夫々嫁ぎ、長女の「はじめ」に養子文三を迎えました。文三も又、時代に対応した経営能力が無く、さしもの七條の財産も昭和の始めには全く無くなり、夫婦は又も男子は無く娘二人を連れて上京して参りましたが、戦前に夫婦もやがて亡くなり(文三、昭和八年、四十九才)。娘二人が残りましたが、姉は早く亡くなり妹の「ユタカ」一人が残りましたが、婚期を逸した為、現在世田ヶ谷で一人で住んで居ります。従って、七條家は私が本家を含めて継いで行かねばなりません。
 四国八十八ケ所の寺の一つ、小松島市の地蔵寺徳島県小松島市松島町にある真言宗大覚寺派の寺院。山号は國伝山。本尊は地蔵菩薩。の本堂正面に寺の墓地とは離れて七條家代々の墓が据って居ります。当時の七條がいかに寺にとって大事な檀家であったかが偲ばれます。
 七條家の屋敷のあとは、現在小松島市の中田小学校中田小学校(ちゅうでんしょうがっこう)は、1879(明治12年)年10月に創立。現、小松島市立千代小学校。になって居り、敷地の広さが想像されます。
 尚、祖父がまだ上京する前に、つまり明治二十年頃は、娘達は学校へ人力車で通い、弁当は特別に家から届けられ娘達だけ教員室で先生と一緒に弁当を食べたという話を娘の一人蔵本ますみから聞いた事があります。私自身半信半疑でしたが、本人がいうのですから本当だったのかも知れません。
 佐市郎も最初の子供二人は娘でしたが、三人目に始めて男子(正一)が生まれました。正一は明治二十五年二月に産まれていますので、全くの乳のみ児を連れて祖父は上京した訳です。
 佐市郎の妻たつ(私の祖母)は、明治三十年七月二十一日に子供三人を残して亡くなり、祖父は娘二人が成長する迄、独り身で居りました。
 そのうち、上の娘すみは蔵本俊次郎に嫁ぎ、下の娘も大正時代に入って、杉森孝次郎に嫁ぎ、家に娘達が居なくなったあと後妻として古幾を迎えた訳です。古幾は、大変長命で数年前迄元気で居り百一才迄生き、昭和五十八年に亡くなりました。
 すみの嫁いだ蔵本俊次郎は、三田(慶應義塾)出の秀才で、白木屋百貨店(現在の日本橋東急の場所)に入社し、神戸支店長から本店総務部長となり、丁度昭和の初期の不景気の時の人員整理の責任者となり、整理が了った時、自らも潔良く退社してしまいました。若い頃(明治の終り頃?)ロンドンに滞在した事もありなかなか進歩的な人でした。
 次女はなは、お茶の水の女子高等師範(お茶の水大学)を出て、しばらく教師をしていましたが、当時の早稲田大学の少壮助教授、杉本孝次郎に嫁ぎ、戦後迄仲の良い夫婦でした。杉本は戦前の早大の名物教授で学生にも人気があり、中央公論などに屡々難解な論文を書いて居りました。
 又、佐市郎と古幾との間には一男一女が生れ、兄の祐三は、北海道大学の理学部を出て電々公社の通信研究所から、後に住友特殊金属の専務を得て数年前に退社し、その後子会社の社長を経て、現在は自適して居りますので、昨年から当社の監査役をお願いして居る理学博士です。
 妹の周子は、中瀬義武に嫁ぎ、娘四人を育てて、現在阿佐ヶ谷に居ります。中瀬は一橋を出て、日本化薬に入り将来を期待されて居りましたが、十数年前に亡くなり、周子は娘四人を女手一人で育て大変苦労しました。

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前に述べた様に明治時代の配達は荷車を引いて得意先へ届けました。
 大八車の前と後にボール紙を積んでバランスを取り肩に引き綱を掛けて荷車を引いたものです。平地を歩く時は良いのですが、少し坂道となると大変力が要り一人では荷車を引けません。
 当時は、九段坂の下などに「立ちん坊」と称する荷車の押し手が居て、坂の上迄押し上げて何銭かの報酬を得る職業がありました。
 両国橋の袂の両国公園(現在の江戸政や大木唐辛子店の辺り)の附近にはやはり何人かの立ちん坊が居て、両国橋を渡る車を押して居たのを見た記憶があります。
 当社でも、倉庫係の人が荷車を引きましたが、当社で荷車で配達をした最後の人が戦後屡らく当社に在社した井村です。
 関東大震災直後に倉庫要員として当社に入りました。やはり、最初は荷車を引いていましたが、やがてオート三輪車やトラックが配達の主力となり、昭和の初期には荷車は無くなり、倉庫番として荷物の出入庫を担当しました。
 尚、メーカーからの配達は殆んど馬車によるもので、一度何トン運んだか判りませんが、倉庫の前に馬糞やボール紙のあて紙が散らばっていました。

ここで我が国の板紙の歴史を簡単に述べて見ましょう。

我が国の板紙は、明治二十年、東京千住に資本金十七万円で設立された「東京板紙会社」1886年(明治19年)10月設立。1920(大正9)年2月に富士製紙に買収・合併され、1933(昭和8)年5月に王子製紙、樺太工業の3社が合併し、王子製紙が新たに誕生。戦後には千住製紙と改称、1983(昭和58)年十條板紙(現、日本製紙)に合併されて、翌年に移転し、工場は閉鎖。板紙発祥の地:東京都荒川区南千住6丁目37が、英国より機械を輸入して始めて稲藁を原料とする板紙を抄造したのが最初です。同社の生産は、明治二十年に二八〇噸、明治二十二年七〇一噸、同二十四年に一六四五噸生産されました。

当時の板紙は、MPで八オンスで噸三十六円五十銭、十オンス以上は噸四十円五十銭と言われています。
 当時としては大きな収益をあげていましたが、富士製紙が入山瀬に円網の板紙マシーンを設立して、板紙の生産に入った為、忽ち市況は暴落して泥試合となりました。
 その解決策として、日本板紙販売合資会社が明治二十八年三月設立され、両社の板紙の一手販売を始めました。これが我が国の板紙の自主統制の始まりです。
 この時から約百年、日本の板紙は乱売、競争、カルテルの循環を今日迄続けているわけです。
 その後、明治三十年を境に西日本に、西成、美作、広島の板紙メーカーが発足して再び乱売となり、先の統制会社と合わせて五社の日本洋紙合資会社が出来ましたが、日露戦争後の好況時に、岡山製紙、山陽板紙、北越製紙が新しく開業し、黄板紙の生産量は従来の倍の二五〇〇噸に達し、在庫が忽ち増えて、日本洋紙合資会社の在庫が五〇〇〇噸に達しました。
 その結果、黄板の販売はますます激しくなり、明治四十二年一月ごろ噸六十円が三月には噸四十円迄下がりました。
今でこそ黄板の生産は僅かですが、当時は現在の様なチップボールなど無く、稲わらから製産される黄板紙が主力製品でした。
 そこで各社は再び日本板紙共同販売所を作り、共同販売所は過剰分は極力輸出に向け国内の価格維持に力をむけました。
 当時の六社は富士製紙、東京板紙、西成製紙、北越製紙、岡山製紙、美作製紙の六社ですが、これ等の各社と当社との取引がいつごろから始められたかは明らかではありません。
 尚、この共販会社も大正初期にアウトサイダーが激増し、又、大巾な増設が行はれた結果、共販会社はその力を失い、大正二年十一月その機能を停止し、大正四年夏には遂に一噸三十三円迄暴落し工場の閉鎖休止が相次ぎました。
 我々は現在の段ボール原紙の市況を見て、今から七十年前の板紙業界と同じ事を繰り返している事を痛感せざるを得ません。

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第一次欧州大戦1914年7月28日から1918年11月11日にかけて、連合国と中央同盟国との間で繰り広げられた。7000万以上の軍人(ヨーロッパ人は6000万)が動員された史上最大の戦争の一つ(第一次世界大戦)。は、大正三年七月二十八日オーストリアの対セルビア宣戦に始まり、急速にその規模を拡大し、我が国も日英同盟を結んで居た為に、大正三年八月二十三日対ドイツに宣戦を布告しました。
 前に述べた様に当時の板紙市況は大不況であり、黄板紙がトン三十三円迄値下がりした時期でしたが、当時の見通しとしては戦争は短期で了る見込みであり、その間、輸入材料が途絶して困難を堅忍持久すべきであると云われ、一般の景気は極めて不況でした。
 当時の雑誌、新聞によっても、開戦二~三カ月は紙の市況は軟化し、全般に不況であると報じられて居ります。然し乍ら戦争が意外に長引き、東南アジア諸国がヨーロッパ諸国からの輸入が途絶え、我が国からの輸出が急増するに及び大正四年の半ば頃から景気は急速に回復して参りました。
 板紙の市況も、大正四年夏を底にして徐々に上向きとなり、翌五年五月頃はトン五〇円迄回復しました。
 ところが戦争は終わるどころか、大正六年、七年と長期化するに及び、市況は文字通り狂騰して遂にトン当たり一八〇円迄上り、茶ボールが二三〇円、白ボールが二七〇円を唱えました。
 尚、この様な状況は板紙ばかりでなく、洋紙も和紙も何れも暴騰し、大正六年九月に発令された暴利取締会の第五項目目に紙類が入れられた事も当然であったかと思われます。
 第一次大戦は、大正七年十一月十一日休戦条約成立となり、ドイツが敗北しました。その結果、我が国の経済界も大きな影響を受け不況の様相を呈して参りました。
 紙業界も、大阪の北洋紙店の整理などがあり、紙の市況も休戦ショックで一時的に暴落致しました。
 然し乍ら休戦ショックは半年位で収まり、むしろ欧州諸国は戦後の復興景気が始まり、我が国の国際収支も大巾に改善され再び好景気が訪れて参りました。
 紙業界も再び活況を呈しましたが、この期間は短く、大正九年三月十五日の東京株式市場の大暴落をきっかけに商品市況は大暴落となり、経済界は恐慌状態になりました。紙業界も大きな影響を受け、大阪・名古屋の有力紙商数社が整理に入ったのもその頃です。
 私の産まれた日が大正七年六月三日ですから当社の最も景気の良い時代に生まれた訳ですが、当然の事乍ら当時の記憶は全くありません。
 明治時代の当社の番頭は、中田直平が筆頭番頭で祖父を助けて居りましたが、独立して浅草橋交差点の角に、中田イーグルノートを始めた為に、大正時代は三須峯松が番頭として祖父を扶けて居りました。営業手腕もあり、当時の好景気に乗じて当社の業績を大いに伸ばしましたが、大正十一年頃に当社を退社して居ります。
 理由は良く判りませんが、不況に突入した時の積極策が、私の父と意見が合わなかったからではないでしょうか。然し、第二次大戦後再び私に協力し、三昭段ボール㈱を設立し初代社長になり、又、当社監査役として当社の戦後の復興に協力しました。
 大正十一年三須が退社後は、小川千之助が筆頭番頭となり、杉山、入江、湯川、大河原などが活躍して居りました。
 第二次大戦後、昭和三、四十年代に当社の役員として活躍した。寺尾長造、岩崎要造、渡辺政治など、何れもその頃入社した若手社員でした。

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大正十二年九月一日午前十一時五十八分関東地方に大地震関東大震災。震源地は相模湾北部で、地震の強さは最大震度7、規模はM7.9であった。昼食時のため、家屋倒壊によって134か所から出火して気温が上昇、東京では1日夜半には46℃に達して9月3日午後2時に鎮火した。初震以来各地に津波が襲来した。被害は東京府を中心に神奈川、千葉、埼玉、茨城、静岡、山梨の1府6県に及び、被災者は約340万人、死者9万1344人、行方不明1万3275人、重傷1万6514人、軽傷3万5560人、全焼38万1090世帯、全壊8万3819世帯、半壊9万1232世帯。がありました。
 数え年六才でした。代々木初台の高台に父母と弟の博二と四人で住んでいました。代々木練兵場(現在の代々木公園)越しに、明治神宮の森が良く見え、庭には大きな松が一本植えてありました。
 丁度、中食前で父は出社して居り、家には母が私達のため玉子の汁を作って居り兄弟二人で茶卓の間に座って居りました。
 突然の大地震で母は私達兄弟の所へとんで来て、私達を抱え込みました。その瞬間、今迄母が居た場所にあった茶箪笥が音を立てて倒れ、ガラスが粉々になりましたが、幸に誰も怪我はなく、母は慌てて家kが揺れる中を私達と共に庭に飛び出しました。
 私は、子供心に庭の松の木にしがみついていた感じを、今でもありありと思い出します。最初の地震が了っても揺り戻しというのでしょうか余震が引き続いて何回かありなかなか家の中には入れません。
 現在の様にテレビやラジオも無く電話もありませんから、囲りがどうなっているかさっぱり判りません。尤も電話があってもあれだけの大地震だと通じるかどうかも判りませんが、母はさぞかし心細かった事と思います。
 当時の我が社の建物は、木造二階建の立派な建物で、現在の建物と反対を向いて居り、現在のほりつ茶店と久東さんの建物の辺りに建って居りました。
 店の真向いは、江戸所代から有名な村田きせる店や梅園しるこ店があり、その並びに銭湯の清水湯があり、大変賑やかな通りでした。両国橋を渡って日本橋へ向かう人々が通る江戸時代からの表通りで、沢山の小売店が並んで賑やかな通りでした。
 当時は、祖父佐市郎が当社を経営して居り、祖母(古幾)、叔父(祐三)、叔母(周子)の四人が住んで居り、十数人の住込み社員と、若干の通勤社員が勤務していました。
 前にも述べました様に、地震は正午近くに起き多くの家屋が倒壊しましたが、現在の東日本橋近辺では、それ程大きな被害もなく火災も発生しませんでした。ただ川向うの本所の方に、先づ火の手が上った様です。
 我が社でも、何処へ避難するか意見が分かれましたが結局上野公園に逃げるのが最も良いと決まり、第一隊が午後二時頃荷車に荷物を満載して、祖母が責任者となり子供達と共に上野公園の南側に提灯を掲げて陣取りをしました。その頃の苦労話しは、先年亡くなられた岩崎元専務がよく話をして居りました。
 祖父は、外交へ出ている社員が全員戻るのを待って居りましたが、本所の火の手も大きくなり、日本橋側の方にも火の手が見えて参り危なくなりましたので、帰社した社員全員を連れ、手許に在る荷車全部に荷物を積んで上野公園に向かいました。その頃は避難の車で道路は大変混雑していましたが、暗くなって上野に着き先着の第一陣と合流しました。社員一人が帰社しませんでしたが単独で逃げて居り、数日後に無事である事が確認されました。
 私の父、正一は代々木の居る母や私達の安否が心配なので一人で自転車に乗り自宅に向かいました。子供の頃の記憶ではっきりしませんが、夕方近くには父は帰ってきた様に思います。
 夜になると、明治神宮の森の上の空が一面に真赤になりました。
 あの空の赤さは、今日でも忘れられない光景です。

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上野公園に逃げた祖父母や多勢の社員は、夜となると共に日本橋方面が真赤に燃えて夜空をこがしてたのを見て、我が社の建物もあの辺だろうと想像しながら一夜を明かしました。
 二日の朝を迎えて上野公園に居ても仕方ないので、二手に別れ一部の人人は代々木の私達の住宅に、残りの人は日暮里の当社の艶紙工場に移りました。
 当時、我が社は日暮里の御行の松江戸時代から「根岸の大松」として親しまれ、江戸名所図会や広重の錦絵にも描かれている。台東区根岸4丁目9番5号。の近くに艶紙の加工工場を持って居りました。
 艶紙は、古い社員の方々はご存じの様に当社の売上の中の大事な要素でした。現在でもクリスマスケーキの箱に白い艶紙が帖られているものもありますが、当時は、現在の様に印刷箱はありませんでしたので、黄ボールに小間紙を帖るか艶紙を帖って箱に仕上げたものです。但し、震災前は景気も悪く沢山の在庫を抱えて居りました。
 地震による大火はご存じの様に下町を全く焼き尽くしてしまい。現在の国技館の近くの被服廠跡関東大震災の発生と台風の余波で強風が吹いていたこともあり、この地だけで、3万8千人もの尊い命が失われた。旧陸軍被服廠跡 現、横網町公園。に逃げた多勢の人人が全て焼け死ぬという悲惨な光景が各所に見られました。当社もよく被服廠に逃げずに上野公園に逃げた事と思って居ります。
 当社の倉庫のボール紙の火は、何日経っても消えず上の紙を二、三枚はがすと下からぼっーと火が燃えて来ました。縦に積んであるボール紙の火はなかなか消えません。一週間近く消えなかったのではないでしょうか。
 当初は、日暮里の工場を事務所にして商売を続けましたが、不便なので大急ぎでバラック建の仮店舗を焼けあとに建てました。震災から二カ月位経ってから建てた様な気がします。
 震災は、当社にとって大打撃でした。先づ、本所、深川の御得意先の売掛金が全く回収されません。家屋、商品を焼けていても保険金が十分入って来ません。
 御得意先の中には、家族全体の行方が判らずそのまま回収出来なかった売掛金が沢山出来ました。一時的には、モラトリアム(法令を以て特に一定期間、債務の履行を延期する措置。)が施行されましたが、振り出した手形は何等かの形で決済しなくてはならず、祖父は大変苦労した様です。
 その時、流動資金の基になったのは、仙台を中心とする東北地方の売掛金と先程の在庫の艶紙でした。デッドストックの艶紙が飛ぶ様に売れてしまい、また、地方の御得意様が積極的に支払いをして戴いたお陰で、運転資金が出来た事が復興の大きな救いとなりました。
 その後も、仙台を中心とする東北地方の御得意先は当社の大きな地盤でしたが、戦後、私が方針を誤まり、現在では此の地方の御得意様を失った事は残念でなりません。
 震災で下町は全く焼けてしまいましたので、東京市は区画整理を行い道路を広くし、区画を整頓しましたので、街のおもむきも随分変わってしまいました。
 前にも述べました様に、現在の本社の前の広い道路は無く、学校(当時は千代田小学校で私の母校です)との間に堀(矢ノ倉堀)があり、堀に沿って小道がありましたが、私は学校へ行くのに小さな橋を渡って登校しました。
 当時は、当社は現在のほりつ茶店の辺りが正面入口だったと思います。小売店も沢山あり大変賑やかな通りでした。江戸地代の盛り場は両国両国西広小路。現在の中央区東日本橋に設けられた広小路で、江戸市中内に設けられた3つの主要な広小路(江戸三大広小路)のひとつ。他に下谷広小路(上野広小路)、浅草広小路がある。と浅草しかありません。
 江戸地代は、現在の銀座か新宿に匹敵する盛り場だった筈です。尤も、明治から大正年代に入ると、それ程の盛り場という感じはありませんでしたが、それでも寄席が何軒かありましたが、震災で失くなり普通の商業地域となってしまいました。
 本社の一画は、当時の米沢町三丁目と称して居り、小さな町会でしたが父が町会長などをして居ましたので区画整理の委員をしていたようです。
 当時、当社の前は清水湯という銭湯でした。当社に運ぶ黄ボールは殆んど馬車で運ばれました。従って倉庫の前にはボール紙のあて紙が沢山散らばりまた、馬糞が始終ちらばっていてご近所に迷惑だったようです。
 また、風呂屋は、小売に向かないというので多勢の意見の結果は、当社は裏通りに面することになりました。父はしぶしぶ移りましたが、我々には南向きの日当たりの良い広い通りになったと大変喜んで居りました。銭湯も横町の方に移されました。
 父は、銭湯は毎日人が出入りするし、また、当社は、荷物が毎日出入りするのにどちらを除いても街がさびれてしまうと云っておりましたが段々さびれて参りました。
 区画整理後、すずらん燈を通りに賑やかにつけ、私達はすずらん通り東京都中央区東日本橋2丁目19番から4番までの道路の呼び名。同区が定める道路愛称名のひとつ。御幸通りより1本北に位置する。とよんでいましたが、現在ではすずらん通りと云っても判る人は殆んど居りません。

関東大震災を契機に、当社の経営の主体は祖父(佐市郎)から父(正一)に移り、祖父母、叔父叔母の家族は、艶紙工場のあった根岸に家を建てて住み、引換えに父母と私達が両国に住む事になりました。
 当社の前の現在の区立第四中学校は、その頃は千代田小学校と云って名門の小学校で、特に現在の建物とは違った丸味のある三階建の校舎でありました。昭和五年には、天皇陛下のご来臨を仰ぎ、都内でも番町、誠之、常盤と並ぶ名門小学校でしたが、残念な事に昭和二十年三月十日の大空襲で全焼し、生徒も分散してしまい、遂に廃校になってしまった事は残念でなりません。
 私はこの小学校に大正十四年から昭和六年迄通学しました。通学には本当に便利で中食は運動靴のまま自宅に帰って食べて居り、弁当を持っていった記憶はあまりありません。
 当社の建物もバラックのままでは仕方ありませんので、間もなく本建築にかかり木造モルタルの二階建の、当時としては立派な建物を造りました。
 当時の社員(店員)は殆んど住み込みで、結婚をすると家を借りて通勤しました。通常二十人位の社員が住み込んで居り、女中さん二人で朝、昼、晩の食事を作って居りました。五升位炊ける大きなお釜でご飯を炊いて居りました。この様な光景を知っているのも現在では、私と佐久間さんの二人になってしまいました。
 正面を入ると大きな畳が敷いてあり、お客様が紙を買いに見えると、小間紙などは畳の上で紙を数えて、ハトロン紙で丸めて包みお渡し致しました。ボールの配達も荷車や馬車から、小型トラックや自動三輪車に移って参りました。
 昔の休日は、一年のうち一月十四、五と七月十四、五日の2回だけだった様ですが、昭和の初め頃の休日は、月に第一、第三日曜日の二日しかなくその他の日曜日は仕事を致しました。現在から想うと隔世の感が致します。
 私の祖父は、大変器用な人で機械が好きで、艶紙の製造は震災後中止しましたが、工場の一角で型押し(エンボス)や紙管の機械などを手がけて居りましたが、やがて、ドイツから紙レースの機械を輸入し、本格的にレースの製造を始め、雛印レースとして発売をしました。
 現在、相模原市に居る川島四吉さんが祖父の片腕となって働いてくれました。戦後も箱崎で試験的に動かした事もあります。現在ではこの機械は緑町倉庫の片隅にでもあるのではないでしょうか。
 当時の板紙の主力は黄ボールで、それに色ボール(茶ボール)の需要が多く、段ボール原紙などは僅かなものでした。日本紙業亀有工場、高崎製紙日光工場、北越製紙長岡工場の黄ボールが主力で㊀、T、☆などのトレードマークで随分販売しました。
 戦後の平判の大手は、文昌堂、深山、七條などでしたが、当時は、島田、朝田などの大手板紙店もありました。
 前にも述べた様に、我々販売店はメーカーの手形は落とさねばならない反面、多くの得意先は震災で焼失して居り、メーカーの支払いに苦慮致しましたので、当時の板紙専門店が相談してメーカーに団体折衝をしました。
 この時の大手板紙店の集りが、毎月十三日に集まったために、十三日会と称して東京の板紙の流通を指導して居りました。この十三日会は、戦時中閉会になって居りました。
 戦後は、再び太田(朝井)文昌堂(市村)深山(深山仁策)七條(小川)などが中心となって復興し、戦後の板紙界をリードして居りましたが、段ボール原紙の著しい伸展と共に流通のシェアーが変って参りましたので、十三日会を基に東京板紙代理店会へと発展的に移りました。
 従って大阪、名古屋と違って、東京の代理店会の役員の役半数は旧十三日会系の板紙専門店が占めて居ります。

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昭和五年から六年頃は、世界的な不況で大学を出たけれど就職先に困った時代でしたが、小学生の私には景気の事は全く判りません。
 当時の我が家の家族は、父母と妹(尚子)、弟(邦男)の五人暮らしでした。昭和六年に小学校を卒業して府立三中(現、両国高校)に入学しました。
 府立三中は、父も卒業して居り親子で同じ学校の卒業生です。通学は歩くにはちょっと遠いので、両国橋から市電(都電)に乗って江東橋四丁目で降りて三中に通いました。
 又、時々は錦糸町駅から国電で浅草橋駅迄乗って帰った記憶もあります。市電が回数券で国電が通学定期を使った様な気がします。中学二年の時に弟が病気で亡くなり、その後は家族四人になってしまいました。
 尚、現在の国電は、昔は省線と云い、その昔は院線と称しました。つまり、鉄道院の時は院線であり、鉄道省になると省線電車となり、日本国有鉄道になると国電になった訳です。
 さて、府立三中に入って見ると、さすがに勉強の出来る生徒が多勢居り、クラスで成績を上げるのに骨を折りました。
 当時、成績の良い生徒はクラスで九人が、赤線と云って袖口に赤いひもを縫いつけていましたが、四年の頃は私も赤線から外れた記憶があります。中学も三年を過ぎる頃から愈々進学を決めねばなりません。
 当時の学制は、小学校六年、中学校五年、高等学校三年、大学三年の六・五・三・三制でした。従って、東京帝国大学や京都帝国大学に入るには、先づ高等学校、例えば、第一高等学校(東京)、第三高等学校(京都)など全国の高等学校に入り、それから大学の試験を受けねばなりません。
 尚、私立の早稲田大学や慶應大学などは高等学校に相当する予科が三年あり、予科に入れれば殆んど大学迄は進学出来ました。
 私が一橋(東京商大)を志望した第一の理由は、父が一度受験したことを聞いて、よしそれなら親の仇討ちではありませんが、親の出来なかった事を子供がやり遂げようという気になった事です。
 又、第二の理由は、当時、東京商大は予科制があり、予科に入ると六年間同じ大学へ通える事です。高等学校へ入れれば全国のどこかの帝大には入れるのですが、それでも三年後にもう一度試験を受けるのも面倒なので、一度合格すれば六年間通える東京商大を全力で狙いました。
 又、当時の中学は五年制でしたが四年を終了すると大学を受ける事が出来ます。失敗しても、もう一年中学の五年を勉強して卒業の時に試験を受けられます。つまり、一種の度胸だめしに受験する事が出来ました。
 現在でもそうですが、一橋大学は英語が難しいので英語を懸命に勉強しました。家庭教師もつけて貰い専ら英語に集中しました。元来、数学は得意でしたので余り勉強もしませんでしたが、何れにしても受験科目に集中して他の学科は全く放任してしまいました。時々学内や学外の模擬試験の成績ばかりを気にして居りました。
 昭和十年の三月中旬四年を終了して度胸だめしに一橋を受験しました。受験する前に先輩からは色々のアドバイスがありましたが、どんなに出来なくても最後迄あきらめるなという事は心に決めて試験場に向かいました。国立の駅を降りて校舎に向う多勢の受験生を見て何となく自信を失ってしまいました。
 試験は三日間でしたが、先づ第一日も数学に失敗しました。今でも覚えて居りますが問題が六問ありました。私は幾何が得意でしたから、真先に幾何から始めましたがどうしても解けません。易しそうで取りかかったのですがどうしても出来ず時間が経って焦ってしまい、己むを得ず他の問題に取り組みました。 ところが、試験時間の半分を過ぎた頃一人の先生が外から入ってきて、実は解答不可能な問題がありますから訂正して下さいといって、線分の長さ訂正しました。その問題が実は私が長い時間かかって、どうしても解けない問題だったのです。
 他の問題から始めた人は、全く被害がありませんが運悪く時間の大半を費った私には全く致命的でした。訂正されればその問題はすぐに解けてしまいました。今日では新聞紙上に取り上げられて大きな問題になるのでしょうが、当時、この数学の採点をどうしたのか、学内の秘密で今日でも私には判りません。
 二日目は、国語や漢文でしたが一日目に失敗した私は全く元気がありません。帰りに友達と国立駅のベンチに坐っていると、他の仲間は皆「出来た」「出来た」と大喜びです。
 私のクラスで毛塚、村松、宮城の三君と私の四人はあまり出来ないので静かにベンチに坐っていると、廻りの友人達の自信のある顔がうらやましくて仕方ありません。
 兎に角、受験料を払ったのだから、三日目も試験だけは受けようと家に帰ってくると思いもよらぬ事が待ち受けて居りました。

前にも延べました様に弟を数年前に亡くして、我が家は父母と妹(尚子)の四人家庭でした。
 私の弟や妹は幼児期に自家中毒にかかり命を失って居ります。今日では良い薬があって命を失う事は少ないのですが、当時、特効薬もなく唯安静にして営養の高い流動食を続ける位のものでした。
 二日目のテストを了って帰ってくると、数日前から具合の悪かった妹の容態が良くありません。主治医の土居先生(現在の土居先生の父)が往診に来て診断をして輸血をした方が良いとの事です。
 先生の意見によれば、出来れば兄弟の血が一番良いとの結果になりました。さあ、困ったのは父でした。息子は一番大事な入学試験の当日です。一方娘の方は自家中毒で容態が良くなく、既に三人の兄弟を失って居りますので心配です。恐らく父としては困惑しきっていた事と思います。
 入試問題にも自信なく家に帰って来た私は、土居先生に診断の結果など知りませんでしたが妹の具合が悪い事は直ぐに判りました。入試の結果より妹の命の方が大事ですから父の依頼を直ぐに承知しました。父は「お前の好きなものは何でもご馳走するから輸血を承知してくれ」との事です。
 当時、近所に芳梅亭という有名な洋食屋がありました。格調のある洋食屋で会社のお客様と中食などによく利用しておりました。その店のランチが美味しくて出前をしてくれましたが、いつもは父母にねだってもなかなか取ってくれません。
 現在の長寿庵の洋食弁当の上等の様なもので、大きな西洋皿に乗って届けてくれました。確か値段は一円五十銭だったかと思います。
 この時ばかりは父は二つ返事で承知してくれ、早速、夕食は芳梅亭のランチでした。今から考えるともっと上等なものをねだれば良かったと思いますが、当時の学生としてはこの程度だったのでしょう。何百C・Cの輸血をしたか記憶が明らかではありません。
 入試当日の数学に失敗した私は意欲を失いましたが、受験料も払ってあり兎に角、受けるだけは受けて見ようと国立へ出かけました。
 試験場に入るとなんとなく冷静な気持ちです。テスト用紙を配られましたがしばらく伏せて置いて廻りの受験生を眺めておりました。血の気が少ないのか、試験を諦めていた為か、不思議に冷静で用紙を伏せたまま数分間ぼんやりというか一種の精神集中をしていました。
 屡らくして試験問題をあけると、最初が長文の英文を和訳する問題が五問か六問か忘れましたが、一枚目全体が和訳の問題であり、二枚目の二問位が和文を英訳する問題でした。
 最初の問題から読んでゆくと、それ程難しくなく続けて二問、三問と読んで行くと知らない単語は一つもありません。
 試験問題は必ず落し穴があります。つまり、落し穴に気がつくか、つかないかが結果に表われます。一問目はここが落し穴だと気付き、二問、三問と英文和訳の問題の落し穴が皆気が付きました。
 不思議と頭が冷静で血が昇らず、又、問題の一、二問は何処かで読んだ事がある様な気がしました。現在と同じ様に悪筆、乱筆なので試験官が読んでくれるかどうかが心配でしたが、それなりに答案を書いて出て参りました。
 国立駅のホームでは多勢の仲間が皆自信あり気に結果を話し合って居ります。その日も又、松村、毛塚、宮城と私の四人は自信なさそうに一緒の電車で、五年生の教科書を買う事など話し乍ら帰ってきました。
 家に帰ってくると妹の症状は輸血の故か快方に向って居り、父母の顔も一段と明るかった様な気がします。兄として妹の為に良い事をしたという気持ちでした。
 三月も二十日を過ぎて居り学校も春休みに入り、前から見たいと思っていた映画などを見に行き、入試の結果など全く諦めて居りました。前にも述べました様に四年終了の受験は予備の様なものですから一校しか受けません。五年を卒業する時は落ちたら困るので私立の大学も受験しますが、私も一橋だけ受けてあとは五年生の事を考え、春休みはのんびり遊びました。
 三月の終り、二十九日の夕方だったでしょうか、夕食前に親戚の人と茶の間で世間話しをして居りましたら父がひょっこり入って来て「達一、来たよ」といって葉書を一枚私に差し出しました。その時、私は何が来たのかさっぱり判りません。父の差出された葉書を見て飛び上がりました。全く予期してなかった一橋の合格通知書です。四月二日に口頭試験と身体検査に出頭せよという葉書です。
 当時の一橋の入試は、学科が合格すれば余程の事がない限り、口頭試問と身体検査で落ちる事はありません。当時、私は全く諦めるというより忘れていた時だけに、受かれば葉書がくるというので発表も見に行きませんでした。
 今から思うと五十年も前(昭和十年三月)の事ですが、流石にあの時の嬉しさは忘れられません。友人の誰れが受かったかは全く判りませんでしたが身体検査の当日国立へ行って見ると、三中から受験した四年生の仲間の合格者は六人で、そのうち四人は前に述べました村松、毛塚、宮城の三君と私でした。あれ程「出来た」「出来た」と喜んでいた友人は一人も居らず「出来ない」「出来ない」と沈んでいた四人が合格する皮肉にびっくりしました。
 つまり、試験の落し穴に気がつかない人は出来たと思い、気がつく人は出来たか、出来ないかが判るのでしょう。
 それ以来、現在でも入試の結果を聞いて「出来た」といった時は、先づ駄目だと思い「出来なかった」と云われると多少希望がある様な気がします。又、それが現在でも不思議に当たります。

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当時の一橋は前期(三年)は小平の校舎で、又、後期(三年)は国立の校舎で授業が行われました。
 クラスは六組に分かれていて私は二組に入りました。級友の中には二浪、一浪が居り、髭を生やして煙草をぷかぷか吹かして居るのや、又、如何にも都会出身のスマートな友人など色とりどりでした。四年終了の仲間も四、五人居ましたが如何にも子供らしい感じでした。
 入学して早速バスケットボール部(篭球部)に入りました。
 当時の一橋は六大学の一部校でした。昭和五、六年の頃は一部の優勝校でしたが、私の入学当時は一部のBクラスでなかなかA級には入れませんでした。東大、文理大(筑波大)、早大、立大、慶大、明大、と商大が一部リーグで、時に東大、文理大、早大が強く、慶大、明大と私達はいつも下位を上下していました。
 当時は、現在の如く代々木体育館もなく、本郷の東大コート、駿河台の明大コートを使っていましたが、しばらくして文部省の国民体育館が神田一橋に出来てからは、全試合この体育館を使いました。
 私と同期に入学した広岡督三君が名フォアードで得点をかせいでくれたので、なんとか他の大学と対等に戦う事が出来ました。彼は全日本を代表する選手でしたが、第二次大戦中、中国で戦死し戦後彼のプレイを二度と見る事は出来ません。
 入学した翌年始めて期末試験が二月二十六日から始まりました。普段の授業は八時三十分から始まりますので、いつも午前七時五分頃の電車に浅草橋駅から乗り、お茶の水で乗り換え国分寺迄国電に乗ります。国分寺駅から当時多摩湖線と称する電車(一輌)に乗って二つ目の駅が商大予科前です。
 その日は雪が激しく降っていましたがいつものように学校に着きますと、学友達が何か大きな事件があったらしい。渡辺大将が殺された、高橋是清第20代内閣総理大臣。1936年(昭和11年)2月26日赤坂表町三丁目の私邸で叛乱軍襲撃部隊に胸に6発の銃弾を撃たれ、暗殺される(二・二六事件)。が殺されたなど、お互いによく判りませんが世に言う、二・二六事件の日でした。幸?に期末試験は中止となり、家に待機という事になりました。
 戒厳令が敷かれ解決に一週間近くかかり、あと一日解決が遅れれば試験は中止となり大よろこびだったのですが、一日前に解決となり試験は全部実施されてしまいがっかりしました。
 運動部に入ったお蔭で毎日練習につぐ練習で家に帰るのがいつも七時過ぎになりました。それに前期は授業をサボるわけにもいかず、前期三年間今から考えても良く頑張ったと思います。
 昭和十二年七月には上海事変が始まり、日本と中国との間の戦線が次第に拡大して参りました。正式に宣戦を布告していないので支那事変1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)まで、大日本帝国と中華民国の間で行われた戦争である。日中戦争に対する日本側の呼称。と称していましたが、現実には日中戦争である事には間違いありません。
 昭和十二年七月二十日に祖父七條佐市郎が死去し、名実共に父が家督を相続しました。翌十三年二月一日に当社も組織を資本金十五万円の株式会社に改め、父正一が社長となり、小川千之助を専務と致しました。当時の大阪支店長寺尾長造も取締役だったと記憶します。
 当社が今日でも一月三十一日が決算日になり、二月一日から新しい事業年度になっているのはこの時から始まっている訳です。
 さて、昭和十三年四月から学部(後期三年)に入り国立に通いました。ゼミナールは高瀬壮太朗教授(後に一橋大学学長から参議員議員になり文部大臣になりました)の研究室に入り経営学を勉強しました。授業の方は適宜にサボってもゼミナールだけは休んだ事はありません。
 又、当時は教練(軍事教練)という科目が週に二度あり、これも休む事が出来ませんでした。教官は陸軍大佐で、補助に少、中尉の人が居た様な気がします。この教練を合格しないと、後日兵役に入った時に幹部になる資格を貰えませんから殆んど出席していました。その都度三八式の小銃をかついて教練をしたのですから、今の若い人には想像出来ないかも判りません。
 昭和十四年の夏、当時の内蒙古政府中華人民共和国の内陸部に位置するモンゴル族の自治区。(主席徳王)から、大学に財務調査で学生を派遣する様に依頼がありました。一度、中国を訪れたいと思って居りましたのでこれに応募する事にしました。
 戦線は中国全地域に波及して居り、軍人でもないのに戦地を訪れる事に多少危険で父は当初反対しましたが、当時、内蒙古地区大同、綏遠(現在のフフホト内モンゴル自治区の首府。)。包頭地区は激しい戦闘も新聞に出て居りませんので、やっと許してくれ無二の親友の石原君と共に参加しました。
 手許の資料によると、東京商科大学蒙古聯盟自治政府派遣学生名簿に、石原君以下十一名の学生の名簿があり、その中央に七條達一「本二 高瀬教授研究室)東京市日本橋区両国二〇と記されて居ります。
 この自治政府の首都は、陰山山脈の南の現在のフフホトで、当時は厚和(綏遠)と稍し徳王が政府の主席でした。
 政府から月額五十円の月給が調査費として支給され、大卒の初任給が七十五円の時代でしたから学生にとっては有難い支給でした。途中張家口で大学の先輩の大平正芳1978年(昭和53年)12月7日に第68代内閣総理大臣に就任、1980年(昭和55年)6月12日に首相在任のまま死去。さんに中食をご馳走になり記念写真を撮りましたが、戦後その時の先輩が総理大臣になられるとは全く考えられませんでした。
 現地に着いて自治政府の財政状態を調べてびっくりしたのは主たる収入が阿片麻薬の一種で、ケシ(芥子)の実から生産され、汁は古代から鎮痛・鎮静作用が知られ、医薬品として用いられてきた。の販売収入である事です。
 当時の中国は今日程厳しい規制もなく阿片は自由に吸えました。フフホト市の北側の陰山山脈の麓一帯は見渡す限り芥子畑で花が落ちた後の芥子坊主が一面に丸く頭を連らねて居ります。坊主の頭をナイフで切ると白い乳液が出て参ります。腰に空き缶をぶら下げて一つ一つ坊主の頭に傷をつけて乳液を採集します。一面の芥子畑ですから小さな空き缶一杯はすぐに採れます。この乳液を乾かすとチョコレート色に変り阿片の原料になります。
 我々の調査目的は阿片収入を少くし、他の収入によって財政バランスを取る事が出来ないかという課題でしたが、陰山を越えれば一面蒙古草原で農耕には不適であり、工業らしいものは殆んど無い。当時としては阿片ほど簡単に政府の収入になるものは見当たりません。
 流石に私自身、名案が無く報告書の提出に困った記憶があります。

法人設立満五十年目を迎えて

今月一日は当社設立満五十年目になります。
 つまり、今から五十年前の昭和十三年二月一日に始めて個人企業から資本金十五万円の株式会社七條洋紙店に推移致しました。
 去る一月二十三日、東京のキャピトル東急ホテルに全社員が集り、式典を催した事は私自身にとっても感無量のものがありました。
 昭和二十年三月十日の空襲で本社、社屋は灰燼に帰し、私がラバウルパプアニューギニアの東ニューブリテン州の都市。第二次世界大戦中の1942年1月23日には、オーストラリア軍とイギリス軍と戦った末に日本軍が占領し、1945年8月の終戦まで日本が占領した。から復員した時は亡くなられた小川さん、岩崎さんなどが細々と箱崎町の倉庫で営業を続けていました。それから約四十年が経過する訳です。
 先日の式典でも三十年以上勤務された役員、社員の方が十六人も居りました。戦後の当社の発展に努力された方方ばかりです。又、その他の社員の方も皆様頑張って戴いた結果が当社の今日であります。
 近頃つくづく思う事は世の中の変遷のテンポが極めて早くなった事です。例えば、戦後の一時期に比べればテンポが二倍位い早くなっている感じです。つまり、過去五十年の変化は将来二十年位いで変わっていくのではないでしょうか。その変化に遅れては会社の発展はありません。時代の推移に遅れぬ対応が大切だと思います。
 これからの五十年は過去の五十年に比べて遥かに難しい感じがしますので、当社の若手社員の方々の知識と感覚が、そして英知が将来を定めると思います。
 さて、当日多勢の社員が一堂に会した時は何とも云えぬ力強さを感じました。一口に云えぬ頼もしさをひしひしと感じました。これだけの社員が居れば何でも出来るぞという力強い感じと、多勢の家族の方々の生活を守らねばならぬという責任感を出席された皆さんが感ぜられた事と思います。
 次の創業百年目は家族の方々も集めて盛大に祝いたいと思います。
 当社も今月から新しい事業年度に入ります。昨年に負けない良い成績をあげてください。

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『紙器』七十五年

我が社の有力な仕入先である日本紙業株式会社1913年(大正2年)8月、日本紙器製造設立。1925年(大正14年)11月、土佐紙と合併し日本紙業に社名変更。1997年(平成9年)10月、日本紙業と十條板紙が合併、日本板紙に社名変更。2002年(平成14年)10月 日本ユニパック(現・日本製紙グループ本社)の完全子会社となる。が今月の八月で創業満七十五年を迎えられます。
 当時は日本紙器製造株式会社と云って、紙器工場として発足しました。当時の専務の田島志一さんという方が大変進歩的な人で、欧米を見学されて日本の紙器工場が遅れているのに気付き当時としては極めて斬新な工場を東京の四谷元町に新設しました。日本で始めてビクトリヤ打抜機を取り入れ又その他動力で動く紙器機械を多数導入し、名実共に日本一の工場でした。
 今日では普通の言葉ですが、「紙器」という文字を始めて使ったのも田島さんと云われています。当初は神田に居ましたが、大正五年に東京信濃町駅の南側に(現在の公明党本部の辺り)敷地約二千坪の紙器工場を新設しました。
 当時の板紙は黄ボールが主力で手動の断裁機や筋押機を使う貼り函が主流でした。動力を使う紙器機械など殆んど無い時代に当時の東京商工会議所会頭の星野錫氏を社長に鳩山一郎第52・53・54代内閣総理大臣。首相在任中、保守合同を成し遂げて自由民主党の初代総裁となる。氏など有名人を役員に迎え自分は専務取締役として資本金五十万円の会社を設立し敷地二千坪の紙器工場を建設したのですから、田島さんという人は余程進歩的な人だったと思います。
 第一次世界大戦の当時で景気も次第に良くなり、大正六年には資本金を二百五十万円に増資すると共に大正七年には亀有に敷地約二万四千坪の第二工場を建設し、新たに丸網式日産五十頓の高性能マシーンを設置したのが会社の板紙の生産の始まりです。
 その頃社名も現在の日本紙業株式会社に改称されましたから、日本紙業と名称となってからは満七十年を迎えて居ります。尚、その頃亀有工場にコルゲートマシーンを新設して居りますから、我が最初の製紙段ボール一貫メーカーとなった訳です。
 田島さんは極めて進歩的な人で、大正十年頃には満州の吉林省にパルプ工場を新設する計画などを打ち出しましたが、第一次大戦後の不況時期に当り遂に失脚して全財産を失い、日本紙業は安田財閥(現在の富士銀行)と移ったと聞いて居ります。
 今日でこそ日本中に何百台或は何千台の打抜器があるか知りませんが、その第一号は七十五年前に日本紙器に導入されたのが最初です。又、紙凾も当時の帖り凾主体から今日の印刷組立凾に移った時代の変遷を感じるわけです。
 当時の我が国の板紙の年産は、僅三万二千頓です。本年の板紙生産量は、約一千万頓と予想されて居ります。正に隔世の感を抱かざる得ません。

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館山支店

当社は、私の祖父七條佐市郎が明治二十五年十月に日本橋米沢町で紙の商売を始めましたが、それ迄は七條浜二と共に七條彦四郎商店の経営に参画して居りました。両者共七條彦四郎の養子で、上の娘の養子が浜二、下の娘の養子が佐市郎でした。
 代々、阿波(現在の徳島県)の藍を専売して居り、同時に千葉県の館山では手広く醤油、酢の醸造をして居りました。七條浜二は文人で俳句を良くし、あまり商売には向かない性格でした。
 時代が徳川から明治に移り、経済界も大きな変革期を迎えたにも拘らず、その対策を誤り経営が傾きかけました。私の祖父佐市郎は共倒れを怖れ、浜二と別れて新しく紙、特に板紙の販売によって新しい展開を計り、以来約百年今日に至って居ります。当時の七條彦四郎商店は本店を徳島県小松島市に置き、支店を代々江戸(東京中央区鉄砲州近く)と千葉県館山市の二カ所に設けて居りましたが、結局経営に失敗して明治の半ばには店を閉鎖して居ります。
 現在より約九十年前の事で詳しい事は判りません。出来れば江戸の店、館山の店の所在地が判ればと思って居りました。当社を退任された佐久間栄次さんが、約三十年位前に一度館山の旧家を訪れ、七條の店の跡の堀割を見て来た事があった事を思い出し、過日佐久間さんが来社された際、一度館山市を訪れ調べて来て下さいと頼んで置きました処、数日前に来社され別掲の俯瞰図を届けてくれました。
 「目で見る千葉県の明治時代」という本に掲載されて居たそうです。私も始めて見た図面で大変興味深く、佐久間さんの努力に感謝した次第です。広い屋敷内には沢山倉庫があり、(いろは四十八倉あったと聞いて居ります)井戸が四つ(うち一つは囲い井戸)高い火の見櫓が立って居るのも興味があります。商標の一㊉は代々の商標であり、祖父は紙屋を始めるに際し自分の商標を一〇に直した事にお気づきの事と思います。下町の繁華街の交差点の南側に大きな店を構えて居たと伝えられて居りましたが、目で見る広い屋敷にびっくりしました。館山市は、大正十二年の関東大震災で殆どの建物が倒壊し、壊滅的打撃を受けて居り、現在は全く跡形もなくその面影を見る事の出来ないのは残念です。
 明治の始めに既にローマ字で表示してあったり、又ヒチジョウと関西風に発音している所など興味深いです。此の図面を何から転写したのか、原本を一度見て見たいです。佐久間さん本当にご苦労様でした。

安房國安房郡舘山町 七條彦四郎

明治29年『日本博覧図 千葉県・後編』(館山市立博物館所蔵)所収

出典:ADEAC/常総市/デジタルミュージアム
『安房國安房郡舘山町 七條彦四郎(目録)』

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第七十六事業年度を迎えて

当社は二月一日より新しい事業年度に入ります。
 当社は明治二十五年(一八九二年)十月現在地にて祖父七條佐市郎が七條洋紙店を開業しました。現在の当社の前の通りは堀になっていて隅田川の水が入って居り学校側に渡るのに小さな橋を渡りました。
 当社は裏の通りに面していて此の通りは江戸時代からの小売り屋さんも並び賑やかな通りでした。当社の前には有名な村田キセル店がありました。その後関東大震災を経て父の代の昭和十三年二月一日に株式会社組織に改めました。西暦一九三八年ですから六十一年を経過しました。新事業年度は第七十六期に入りますが昭和二十年代に半年を事業年度にした事がありますので事業年度の数字が多くなっています。創業以来景気・不景気の大波、小波が常時訪れて居ります。来期も今期に続いて厳しい景気環境にありますが伝統のねばりを発揮して業績を伸ばしたいと思います。長い間には景気の波は常に訪れて参ります。此の波を新しい企画と古い伝統を生かして進めねばなりません。景気変動論が正しいとすれば不況の後には好況が参ります。現在の状況から見て今年は依然厳しい景気が続きますが不況のあとには必ず好況が訪れます。新しい時代に適合した新しい経営を選び次の好況を迎えたいと思います。(一月二十七日記)

 

(※この文章は前半部分が欠落しています。)

いをこめて内地に上陸した時には既に父母もなく最愛の妹を失い思い出の我が家も灰燼に帰して雑然たる瓦礫の山が唯我家の附近を示すだけであった。今日こうやって両国の我家でペンを取れるのも又夢の如き感慨である。ラヂオのNHKシンフォニーホールの演奏が傍でヴェルディの「運命の力」序曲を奏でているが「運命の力」とは一体何なのであろうか。今年三月十日に引越して(会社は五月に引越した)此の方数ヶ月経ったけれど両国に住むという事は故郷に帰った感が深い。近所の人々も昔の人が少なくない。
 あの鈴蘭通りも此の横丁も昔の面影が無いけれどやはりそうだ目をつぶればあの通りが浮んでくる。角の立花屋菓子店、中島印刷、風呂屋その傍の芸者屋さんの軒並み、その角の煙草屋の岡本さん、看板娘がいたけれどどうしているだろうか。大分前の日曜日に子供を連れて帰っていた様である。あの先の幸寿司あの親父どうしたろう。あすこの寿司で一度握ってくれた生のさざえの握りは今でも思い出す味である。ラヂオは歌劇ジョコンダの踊りを奏でているけれど確かジョコンダというバーがあった。銀座四丁目だったかなあ学友の菅瀬君斉藤君がよく行っていた。
 いつのまにか月が上がって来た。川面のさざ波が銀色に光って何となく外が明るくなって来た様である月、ここの月こそラバウルに居て無限の感慨をこめて眺めたあの月である。月が鏡であったならという言葉があの当時程如実に心に浮かんだ事はない。今年も既に半ばを過ぎた。孤独を愛し孤独に住む迂余曲折の人生で今は休みの時間である。人生の目標すら定まらない人間あせって見ても仕方ない。
 以上当時の手記を殆んど原本のまま移記しました。単なる私のセンチメンタリズムかも知れませんがお諒し下さい。

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大阪支店開設時の諸事情  小杉和男

七條紙商事(当時七條洋紙店)の大阪支店(当時出張所)が発足してから早や四十五年になります。
 昭和二十九年(一九五四年)八月スタートしました。
 スタートの切っ掛けの詳しいことは七條会長しか判りません。
 私は七條入社数年で若僧でしたので只命じられるままに大阪へ転勤になりました。只東信製紙(現王子製紙松本工場)を助けるのだとは聞いていました。転勤の時に特に要望はあるかと七條社長(当時)小川専務(故人)御二方より聞かれてまして、少々のことがあっても三年以内に東京へ戻さないで頂きたいと申上げた記憶があります。人生は誠に面白いもので七條社員としての会社人生も私個人の一生も全くの関西人になろうとは!但し今だに関西弁になれない不器用な人間です。
 スタートは寺尾所長(故人)と鈴木和永さん(現三昭段ボール会長)と三人です。それに女性一人と乗用車の運転手さんと計五人で始まりました。大阪の紙商の中で中井商店(現J・P)と大同洋紙店(現國際紙パルプ商事)の二社だけ運転手つきの乗用車がありました。七條洋紙店大阪出張所が五人世帯で乗用車ありと云うユニークな運営でしたので話題になりました。得意先等でも小杉さんは七條社長の親戚ですかと良く聞かれました。若いのが車に乗っていることがおかしい時代です。七條社長(当時)より伺ったことによりますと松本市の当時の東信製紙1943年(昭和18年)8月12日、企業整備令により松本抄紙工業所などの5社が合併し発足。本社は長野県松本市大手1丁目。1949年(昭和24年)松本工場の前身、東信製紙設立。1977年(昭和52年)5月に本州製紙グループの一員となり、1983年(昭和58年)4月1日に本州製紙に合併された。(現・王子マテリア)と七條紙商事とは七條会長の先代の頃より非常に親しく且可成りの応援をしていた位の間柄だそうです。東信製紙の清水工場(今はないと思います)も七條の融資によってできた工場の様でした。時代劇に出て来ます様に紙問屋にしろ薬問屋にしろ問屋は大変お金持ちで、可成りの経済を牛耳っていくことが七條の社歴の中でさほど昔話でない現実のことですから驚きと同時に大いなる誇りを実感します。現在創業以来百年以上続いてる紙の問屋として益々頑張らなくてはいけません。その東信製紙は一地区一代理店制度で東京は七條洋紙店、名古屋は大同洋紙店、大阪は桜井商店になっていました。
 昭和二十九年(一九五四年)大阪の桜井商店に問題が起こったのです。桜井商店は東信製紙と静岡の天間製紙1927年(昭和2年)4月創業、1943年(昭和18年)6月に法人改組された板紙製造業者。静岡県富士市厚原280。2004年(平成16年)3月破産。の商品を販売して居りました。天間製紙が当時段ボール原紙を抄造していまして大阪の日本聯合と云う段ボール屋に販売して居ました。昭和二十九年は今と同じで大変な不況でしたので日本聯合(現王子段ボール)からクレームがつき支払ストップを云われました。(資金繰り等の為無理に苦情を言い難癖をつけて値引きしたり支払を延長したりすること)マーケットクレームです。天間製紙は品質に自信がありますから当然受け付けない訳です。当時のお金で何千萬(現在の貨幣価値ではどれ位になるでしょう)と云う手形を落とさないと云うことになったらしいです。一般的には銀行に廻して不渡にするのですが、何はともあれ桜井商店としては大変なことが起きました。若し不渡になりますと日本聯合はもとより桜井商店、天間製紙、東信製紙等は一大事です。更に前記の会社の取引先等の連鎖を考えますと膨大な広がりになります。勿論この事件には七條洋紙店は全く関係ないのです。但し前述しました様に非常に親しい東信製紙と天間製紙(この会社も東信製紙同様に七條洋紙店と相当に関係が深いです)の苦況は他人事ではなかったということでしょう。桜井商店の社長は東信製紙の大石社長の義兄弟でもありましたから大石社長としては公私共に困惑されたと思います。そこで大石社長が七條社長(現会長)にこの事件に解決策を相談され資金要請を申し込まれたらしいのです。
 若干三十六歳の青年社長としては先代からの深い友情的な考えがあったにせよ非常に大胆な勇気ある決断ではありました。勿論七條洋紙店の戦力が伴っていたから出来た大応援でした。この援助によってそれぞれの会社は非常事態を免れたわけです。
 その頃、関西地区では業界紙の記者達が業界美談だと云って居りました。而し記事にしますと、火元のマーケットクレームに行きつきますので活字にはしないと云って居りました。最も本人は正真正銘のクレームだといっているのですから!
 約半年たったら日本聯合が全部支払いをしましたから結果は読みすじ通りだったんでしょう。これがホントのマーケットクレームの姿です。
 桜井商店は休業せざるをえなくなり大石社長の要請であったので東信製紙の販売確保の為急遽我が社の大阪出張所が開設され次第です。寺尾所長は戦前七條が大阪に出張所を開設しておりました当時、大阪に居られましたから、地理的にも関西は良くご存知でした。鈴木和永さんと私は上方の大阪は全く初めてでしたので少し戸惑いました。正しくは七條の大阪出張所は戦前にありましたから再出発と云うことになります。

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徳島県藍商繁栄見立一覧表(明治29年)

徳島県藍商繁栄見立一覧表(明治29年)

出典:japanblue space 阿波藍のはなし BLOG-2017/01/28
『阿波藍商人見立一覧表から見る明治期の藍の隆盛』

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